いつでも帰って来られるように。わたしは小高で待ってる。

いつでも帰って来られるように。わたしは小高で待ってる。
双葉屋旅館 小林友子さん

2時間に1本、2両編成の電車がゆっくりとホームに入ってくる常磐線の小高駅。震災後無人駅となった駅舎を出てすぐ、このエリアで唯一営業を行っている宿がある。

宿の名前は「双葉屋旅館」。玄関前にはたくさんの花がプランターに植えられ、実家に帰ってきたかのような、アットホームな雰囲気で旅人を迎えてくれる。

この双葉屋旅館の4代目女将を務めるのが、小林友子さんだ。震災後、全ての住民が避難を余儀なくされた小高区で、双葉屋旅館は地域の復興や帰還のハブとして、いち早く営業を再開した。小高の人と話をしていると、必ずといっていいほど小林さんの名前が出てくるほど、地域の中で絶大な信頼を置かれている小林さん。

「自分がやりたいと思うことを、小高で実現してくれれば」という小林さんは、いったいどのような想いで小高を訪れる人を受け入れているのだろうか。お話を伺ってきた。

小さい頃からずっと、小高のまちを見てきた。

小林さんは小高生まれの小高育ち。いわば生粋の小高っ子だ。相馬の城下町として活気に溢れた小高のまちを小さい頃からずっと見てきた。

「相馬のお城跡が今の小高神社。だから小高のまちは元々城下町だったの。その時からの流れがずっと続いていて、明治大正の頃は絹織物が盛んで、私が子供の頃も、街中には機織り機の音が響いていたのよ。」

「それに、機織りで稼いだお金を地域に還元しようっていう、旦那衆の文化もあった。だからクラシックバレエやお琴、お茶や花なんかの習い事もできて、けっこう文化的なまちだったんですよ。」

そんな文化の香り漂う小高の街は、いつでも小林さんを暖かく見守ってくれていたという。

「大学を卒業したあと就職で地元を離れて、それからは全国各地を転勤生活。それでもやっぱり小高に帰ってくれば変わらずに近所の人がいるわけで、『おはよう、ともちゃん!』って声かけてくれる。街の雰囲気もゆったりしていて、そういうところってなかなかないでしょ。それがよかったのよね。」

そして、何よりも食の豊かさが小高の魅力だったと、小林さんは続けた。

「やっぱり食べるものも美味しかったんですよ。なんといってもここで獲れる魚は築地でも認められていた『常磐もの』の魚ですから。寒流と暖流が交わる潮目の海で獲れる魚は、北海道でも食べられないようなのがいっぱいあったんだから。それがスーパーじゃなくて、地元の魚屋さんで買えたの。」

「あとはお米や野菜。地元の農家さんが有機栽培で育てたものだから、安くて美味しい。他の地域では食べられないような甘みのあるお野菜や、美味しいコシヒカリのお米が、都会の半値で売られてたのよ。」

小高を語る小林さんの目は、まるで少女のようにキラキラ輝いていた。

30年ぶりの小高。そして震災。

サラリーマンとして忙しい日々を送っていた小林さん。そんなある時、当時双葉屋旅館を営んでいた両親が体調を崩し、急遽小林さんが実家の跡継ぎを担うことになった。

「両親が同時に二人とも倒れちゃって。それじゃあ私しかやる人いないなってことで、こっちに帰ってきたんですよ。30年ぶりに。戻ってきたくてこっちに来たわけじゃないのよね笑。ずっとサラリーマンをやってたから、旅館の経営なんて初めて。それでも小さい頃からずっとここで育って、祖母や母の背中を見てきたから。」

子どもの頃の記憶を頼りに、手探りで旅館の切り盛りをしてきた小林さん。それから10年後、女将の役回りもだいぶ板についてきたという時に、震災と原発事故が発生した。

「南相馬市の中でも、小高は原発から20キロ圏内だから、避難区域になって。それから1年間は立ち入りもできなかった。私も長男の家があった名古屋に避難したの。それでもやっぱり1ヶ月に1、2回はこっちにきたりしてね。情報がないから、どうなっているのか確認したくて。」

先が見えない状況がしばらく続いたが、震災から1年余りが経った2012年の4月、小高区は立ち入り制限が解除され、日中の出入りができるようになった。さっそく、旅館の再建へと動き出した。

「1年誰もいなかったから雨漏りやネズミの被害がすごかった。津波もここまで来てたし、そんなにすぐに戻れるような状況じゃなかったのね。それでもやっぱりここは旅館だから。直さないと営業できないし、人も戻ってこないでしょ。だから2013年から2年かけて改修をしたんです。」

小高への想いを力に。前へ進み続ける。

小林さんが手がけたのは旅館だけではない。宿の前の道には花を並べ、隣の建物はアンテナショップにした。そうしていくうちに、想いをともにする人たちが、小林さんのもとに集まってきた。

「夜になると真っ暗で、来ても寄るところがないってなったら、やっぱり気持ちも暗くなるじゃないですか。だから花を植えるところから始めて、まずは街を色づけようって。駅前の通りに勝手に植えたのよ。それでだんだん自分と同じ想いの人たちが集まってきて、次は2015年にアンテナショップを作ったんです。仮設住宅で作った手作りの商品を売ろうよっていうことで。」

「そうしてるうちに街にもだんだん明かりがつくようになってきて。『あ、あそこもついた。』『今度はそこもだ。』っていうふうにね。一個一個電気が増えていく嬉しさってあるんですよ。それってきっと、ここに住んでいる人の共通の想いじゃないかって思うんです。」

自分が愛する土地で暮らす。そのために、ひとつひとつ、自分たちの手でまちづくりを進めてきた。目指すのは、震災前の小高の「再生」ではなく、新たなまちの「創造」だ。

「震災で全部がゼロになっちゃったけど、小高に対する、ちょっとした想いっていうのはやっぱり残ってるじゃないですか。自分がここで生まれ育って、見てきたものに対する想いって。そういう想いが、小高にもう一度人を集めて、その人たちで自分が欲しいって思うものを作っていけばいい。震災前の元の姿に戻るんじゃなくて、次の小高のまちを作っていけばいい。」

手探りの10年間が、気づけばあとに続く人の道しるべに。

小高に戻って来てから、ずっと手探りで旅館の営業を続けてこられた小林さん。そうした手探りの足跡が、移住者をはじめ、新たに小高を訪れた人たちの道しるべとなっている。

「たとえば移住者の人が来たら、何やりたいのってところからお話聞いて、家が決まってないならうちに泊まりなとか、あの人のところに行けば紹介してもらえるよとかって、繋ぐことができる。私が10年間積み重ねてきたことが、移住者の人にとっても有効なネットワークになるのかなって思ってるんです。」

「自分のことで精一杯だったから、別に誰かの応援をしたいと思ってやってきたわけじゃないのよ。だけど、そんなふうに今までやってきたことが、結果的にここを訪れる人たちに共感してもらっているってことで。自分がこういうものがあったらいいなとか、こういう街だったらいいなっていうのを、私たちが伝えていって、そういう想いに『いいですね』って思ってくれる人が小高に来るんだろうなって思ってます。」

避難指示の解除からまもなく6年になる小高。まだまだ足りないものが多いという現状ではあるが、それでも小高で夢を実現したいという人の背中を押したいと、小林さんは言う。

「まだ不便なところもたくさんあるから、無理矢理『いいところだから戻っておいで』とはならない。だけど、今の状況でも『ここがいいね』っていう人たちが集まって、みんなで街を作っていけばいいと思ってるの。」

「だから、移住を考えている方には、『自分はここでこれがしたい』っていう想いを持って小高に来てもらいたいんです。その想いがあれば、きっと地元の人は手を差し伸べてくれるから。」

熱い想いを持ったあなたの「帰り」を、小林さんは小高で待ってくれている。


文…久保田貴大 撮影…アラタケンジ