「何か」を求めて“社で会う”。 人々の心に寄り添い続ける、日鷲神社のまなざし。
幕末まで代々相双地域(福島県沿岸部の北部)を治めていた相馬家とともに、700年前に千葉県から南相馬にやってきた歴史を持つ日鷲神社。実は、小高を代表するお祭り『野馬懸』でも重要な役割を果たしています。今回は宮司の西山典友さんに、日鷲神社の歩みを教えていただきました。
92年ぶりに神事が復活、野馬懸と日鷲神社の伝統
2023年は、奥州相馬家が相双地方に移り住みちょうど700年という節目の年。南相馬の夏を代表するお祭り「相馬野馬追」で行われる「野馬懸」(※)でも、特別な儀式がありました。
※毎年7月最終土・日・月曜日に、南相馬市で開催される祭典「相馬野馬追」の最終日に小高神社で行われる神事。野馬追の古来の姿を現在に残し、白装束の御小人たちが素手で野馬を捕え神前に奉納する。
その儀式が、日鷲神社と小高神社のご神水(神様のご利益があるお水)を混ぜ合わせる「水合わせの儀」です。なんと、92年ぶりの復活だそう。100年近く途絶えていたひとつの伝統が復活に至った経緯を、日鷲神社宮司の西山さんが教えてくださいました。
——そもそも水合わせの儀は、どのような儀式なのでしょうか?
西山さん 野馬懸で捕まえる馬に印をつけるためのご神水をつくるために、日鷲神社と小高神社の井戸水を混ぜ合わせる儀式です。今年は相馬家とともに3つの神社、3つのお寺がこの地域に移ってきて700年、という節目だったから復活したんだね。
——儀式が行われていない間、日鷲神社の井戸水は枯れてしまっていたのですか?
西山さん いやいや。井戸の水は、水合わせの儀が行われていない間も、枯れることなくずっと湧いてたの。うちは生活用水としても使っててね。不思議な井戸で、1年中雨が降っても、どんな時も水位が変わらないんだよ。前はね、小高にあった造り酒屋で日本酒造りにも使われていたんだよね。
——お酒造りに使われるほど、清らかな水なんですね。この神社は、いつからここにあるんですか?
西山さん この御宮は1364年からなので、ちょうど来年で660年目だね。
——660年…!一度も絶えずに続いてきたのですか!
西山さん そうそう。おかげさまで、私で27代目の宮司。小高で生まれ育ち、もともとは高校の社会教師として38年間兼業宮司を務めていたんですよ。転勤のあった5年間以外は、ずっと小高にいたので、この辺にはたくさん教え子がいてね。
——高校の先生だったのですね!どおりで、お話がわかりやすいです。
西山さん 「定年したら専業宮司として頑張っていくぞ」と意気込んでいた58歳の時、震災が起こってしまったんだよね。
不安を抱える人々の力になり、絆を再びつなぐお社に
震災当時は小高から福島県立双葉高校に通勤していた西山さん。震災後5年4か月の避難期間は神社の維持に苦労したと語ります。
西山さん 久しぶりに帰って来られても、御宮の周りは草が生え、灯篭が崩れたままになり、それを1日でひとりで全部片づけるなんて無理でしょう。こんなに荒れてしまっていたのよ。
そう言って西山さんが2枚の写真を見せてくれました。そこには、現在の綺麗な姿とは異なり、荒れ果ててしまった神社が。
——いまの日鷲神社の印象とはだいぶ違いますね、さみしい雰囲気です。
西山さん 御宮の維持と、あとは、氏子さんや地域の方たちとのつながりを保つのが難しかったな。みんながどうしているのか、どこにいるのかわからないのが、つらい部分だったね。
避難当初西山さんは、氏子さん一人ひとりの居場所をなんとか口づてで確認し、約半年かけて、みなさんの情報を集めてまわったそうです。そうして再びつながることができた氏子さんたちのご協力があったことで、神社を綺麗な姿に戻せたのだと言います。
西山さん 避難期間中だったんだけど、だいたい20人もの氏子さんたちが手伝いに来てくれてね。片付けが一気に進んだよ。
——たくさんの方々が、日鷲神社のために集まってくださったんですね。
西山さん そう。震災後は宮司のいない神社が地域全体に増えてしまったんだけど、ここには私がいち早く帰ってきたから、氏子さんたちは安心してくれたのかもね。それが、自分が震災の時に(地域に対して)できたことのひとつかな。
小高に戻り、日鷲神社や自宅を守ろうとする西山さんの姿が、避難をしながらも小高に戻るという選択を検討する方たちの背中を押したのです。日鷲神社のある女場行政区は、小高区東部の中でも帰還率が高く、約半分の人々が戻ってきているといいます。
西山さん 実は、お正月に日鷲神社を訪れる氏子さんの数は震災前より増えたんだよね。暮らしの拠点が小高以外の方たちも、福島県内の各地から集まってくれた。
——震災前より増えたというのは、すごいですね。
西山さん みんな、「何か」を求めているんだなって感じたよ。
——「何か」ですか。
西山さん 初詣で1年の幸せを願うにしても、どこの神社でもいいってわけではないと思うんだ。わざわざ、ここまで来てくれるんだからね。
——確かに日鷲神社でお詣りしたいという気持ちが強いんでしょうね。
西山さん その土地の空気を浴びる、その土地の風に吹かれるということをすると、気持ちが落ち着いて「ここが自分の居場所なんだな」って実感できるんだ。この土地の人たちにとって、そんな場所が必要だなって思うんだよね。
西山さん 前にね、宮崎の高千穂で出会った宮司さんから、“society”という言葉についての話を聞いたことがあってね。
——society、「社会」ですね。
西山さん そう。「社会という言葉を、見てみてください」と。「『社会はお社で会う』と書きますよね。神社はみんなが集まる、出会う場所という役割があるんですよ」と言われて。なるほど!と。この話はいただいて、私も誰かに話そうと思ったよ(笑)。
人を集め、広げて、神社からあたらしい輪をつくる
——日鷲神社も、小高の皆さんにとってそのような場所でありたいということですね。
西山さん もちろん、ぜひともそう願っているよ。
小さな社会の一つとして、日鷲神社をたくさんの人が集まる場所にしたいという西山さんは、神社そのものをより身近な存在にすべく、さまざまなイベントを開催しています。その一つが2012年からコロナ禍前の2019年まで行っていた、氏子さんたちとの「神社巡り旅行」です。
西山さん コロナで中断しちゃったけど、以前はみんなが神社という場所を覚えていてくれるように全国の神社を巡るツアーを企画したんだよね。
この御宮にも入れない状況の中、久しぶりに集まることができて、いや〜楽しくてね。
——やっぱり、みなさん西山さんや誰かに会いたかったんでしょうね。
西山さん 前向きな話が少ない時期だったけど、帰りのバスの中で氏子さんから「宮司、次はどこに行きましょう!」と言ってもらえて。 それからは神社巡りが毎年の恒例行事になっていったね。
——とても楽しそうですが、40人の旅行を企画するって、楽しいと同時に大変な面もありそうです…。
西山さん もちろん、トラブルは心配だけど、楽しいという気持ちが大きいよ。不思議と困ったことはあんまり起こらないんだ。あとはね、そこに干してある藍なんだけど…。
そう言われ振り返ると、縁側に大量の藍が干されていました。
西山さん この神社が祀っている「天日鷲神(あまのひわしのみこと)」のルーツが、徳島の阿波であることがわかったんです。
阿波は藍染が非常に盛んなので、毎年藍のタネを送ってもらうようになってね。
——神社のルーツがつながるって、スケールが大きなお話ですね。
西山さん そのタネを、いまは氏子さんの畑で植えてもらっていて、採れた藍はうちで乾燥させて染め物に利用したり、小高小学校の3年生には生の葉を使って藍染体験会も開いたりしているんだよ。
——どんどん出来事がつながっていきますね!
西山さん この間は小学生から藍染したハンカチを見せてもらって。「世界に1枚だよね」って話して盛り上がって。つながりが広がるっておもしろいもんだな、ってつくづく感じていてね。
人との縁を大切に、それをさらに次の人にもつなぎ、楽しみを地域に広めていく西山さん。
——ときに宮司として、ときに学校の先生として、見つめ続けてきた小高は、西山さんにとって…。
西山さん 「ふるさと」というとあまりに一般的だけれど、生まれ育った場所であり「骨を埋める場所」だね。代々家の歴史を見ると、先代の宮司さんたちは、たとえば天明・天保の飢饉の時にも大変な想いをしながらも乗り越え、この御宮と家を守ってきた。綿々たる歴史でしょう。
そう考えると、ここでそれを手放すわけには、いかないね。
実は宮司以外に、合唱団の団長をしていたり、剣道の指導者であったり、たくさんのお顔を持つ西山さん。
西山さん もうそろそろ、肩書を絞っていこうかと思うんだけどね。自分に声をかけてくれる人の気持ちにはこたえたいよね。
——みなさんで一緒に、協力してなにかをすることがお好きなのですね。
西山さん 大好きだね。そして、自分の仕事が社会でどう必要とされているか、とか、自分がどんな風に社会に役立てているか、感じることが必要だよね。 そうすることが、人間としての生きがいにもつながるんだと思うな。
これからも小高の人々の心を癒し、力を与え続ける場所として、地域とともに歩んでゆく日鷲神社。そして、小高のために、氏子さんのために、常にできることを考え、動き、周りにたくさんの人やご縁を集める西山さん。そのお人柄そのものが、まるで神社のように人々の心の拠所になっているのかもしれません。