自分が暮らしたい街を、自分でつくる。
小高の街中を巡っていると、昔ながらの日本家屋の中に、忽然とシックな佇まいの四角い建物が突如として現れる。道路側から見ると建物の中が半分透けて見えるが、入り口はどうやら奥にあるようだ。
「いったいここは何の建物なんだ?」初めて訪れる人を、そう思わせるようなこの建物は『小高パイオニアヴィレッジ』と名付けられた、泊まれるコワーキングスペース。建物の中に入ってみると、まるで映画館のように、一階と二階が階段状の段差で繋がっており、シームレスで開放的な空間が広がっている。
小高パイオニアヴィレッジを拠点に、小高区で”地域の100の課題から100のビジネスを創出する”のが、株式会社小高ワーカーズベース。小高区での起業支援や雇用創出のためのさまざまな事業を行っており、全国各地から挑戦の意志をもった若者たちが、この場所にやってくる。
そして、この小高ワーカーズベースを立ち上げたのが、和田智行さんだ。”起業家”のイメージからするとちょっと意外な、穏やかな語り口と柔らかい雰囲気を持っている方で、自らも「シャイなほう」と認める和田さん。一方で和田さんは、「小高にはどの地域にもない無限の可能性がある」と力強く語られた。その可能性とは何か。お話を伺ってきた。
小高には、唯一無二のチャレンジングな環境がある。
「小高には0から自分が暮らしたい街を作れる環境がある。こんなところは日本中探してもここだけだと思います。」
インタビュー中、和田さんは何度もこのことを強調した。
和田さんが立ち上げた株式会社小高ワーカーズベースでは、コワーキングスペース『小高パイオニアヴィレッジ』の運営の他にも、起業型地域おこし協力隊のコーディネート事業である『Next Commons Lab 南相馬』の運営や、29歳以下の若者の創業支援事業『Next Action → Social Academia PROJECT (通称NA→SAプロジェクト)など、数々の事業を手がけられている。どの事業も、地域に新たな産業や雇用の場を生み出すものばかりだ。
2011年の震災と原発事故の後、小高区には避難指示が発出され、一時全ての住民が域外への避難を余儀なくされた。全ての制限が解除され、小高に暮らせるようになったのはわずか5年前のこと。そんな中でも和田さんはこれだけの事業をすでに手がけられ、他に類を見ないチャレンジングな若者のコミュニティが生まれている。
「誰も経験したことのない、未来が見通せない状況からスタートしました。今はいろんな事業が生まれて、人の輪も広がりつつあるフェーズ。何かやりたい、社会に貢献したいと思っている人には非常に刺激的な場所になっていると思います。」
「0から始めるので、あまり周りの状況を考えすぎたりせず、自分のやりたいことをやりやすい環境。でも、全部一人でやる、というわけでもなくて、チャレンジしている人たちのコミュニティがすでにあって、それがよりどころとなっているのも、大きいかなと思います。」
逆境を糧に、無いなら自分がやるしかない。
和田さんは地元・小高の出身。ご実家は小高の地で三代続く織物屋を営んでおり、この家の長男として生まれた。
「田舎の長男あるあるですけど、この家を継げってって言われて育ったんですよ。でも、この田舎でやりたい仕事ってなかったんですよね。」
「それと、僕らが就活をしていた時がちょうど就職氷河期だったということもあって、大企業に勤めるというのも、ほとんど無理な話だったんです。何万人という規模の会社でも、その年の新卒採用は一人とか二人とかで。最終面接までいった会社もあったんですけど、結局最後の最後で落とされて。それでもう、これは自分でやるしかないなと。」
大学卒業後、ベンチャー企業で経験を積んだ和田さんは、当時の同僚とともに東京で二つの会社を立ち上げることになる。一つ目の会社はシステム開発の会社。もう一つはブライダルジュエリーの販売会社。当時はまだ2000年代、和田さんは20代半ば。これらの会社の業務を、リモートワークで小高に住みながら行っていた。
「Windows98が世の中に出始めたころに、全然知識はなかったんですけど、インターネットの技術と自分のスキルがあれば田舎でも食っていけるんじゃないかって、浅はかながらにも考えまして(笑)。」
震災で一度諦めかけた小高での生活。
常に逆境の中から自らが望む環境を作り上げてきた和田さん。だが、震災と原発事故という、誰も経験したことのない事態がまたしても和田さんを迎え撃つ。
「震災直後は、喪失だったり、怒りといった感情がすごく大きかったです。最初の一年の間に、避難指示が出ていた自宅に何度か一時帰宅をしましたが、雑草も荒れ放題でジャングルのようになっていて。隣に建っていた妹の家は、家の中に入り込んだ動物の死体が白骨化していたりで、まさにゴーストタウンでした。」
こうした状況を前に、和田さんは小高で暮らすことを一度は諦めかけていた。
「もう正直別の地域で暮らすしかないなって。かといって、日本国内だと沖縄以外どこでも原発があるし、もう沖縄か海外に行くしかないと思っていました。それに備えて英会話の勉強をしていたほどです。」
課題の多さは、ビジネスが生まれる余白そのもの。
そんな中、震災から一年後の避難区域の見直しにより、小高区では日中の立ち入りが可能になった。これを機に、和田さんの心境にも変化が現れる。
「避難区域再編の方針が示された時に、真っ先に両親が帰るって決めて、実家の織物工場を再開する準備を始めたんです。僕の妻や家族もいずれ帰れるようになるなら帰るという話に徐々になっていきました。」
「ただ、実際にどう戻るかってことを考えたときに、地域の人とも話したりしたんですが、お店もない、病院もない、仕事もない、コミュニティもない。こんな場所に誰が帰ってくるんだと。僕は当時30代半ばでしたが、若い世代であればなおさらです。」
誰もが無理だと言っていた小高への帰還。だが、和田さんはそんな状況をむしろ前向きに捉えるようになっていった。
「みんなが課題だっていうことって、実は全部ビジネスの種になるんじゃないかって。これだけたくさんの課題があるということは、それと同じ数だけのビジネスが生まれて、ゼロから自分の暮らしたい街が作れるっていうことなんじゃないかと、ある日思いついたんです。」
「当時ちょうど自分の働き方にも疑問が生まれていたタイミングでもあって。ひいコラ言いながら働くよりも、それとはまた違う形の、自分が理想とするようなまちづくりがこの小高でできるんじゃないかって気づいたんです。そうした時に、これは自分しかやれる人はいないんじゃないかと。これはやるしかないなって。」
かくして和田さんは2014年、避難指示の全面解除に先駆けて、現在の社名の元となる、コワーキングスペース『小高ワーカーズベース』を立ち上げた。
背中を押してくれる地域の人の力強さ。
そうは言っても、開業当初はまだ街に人がほとんどいない状態。何かを始めるためには、とにかく手探りでやっていくしかなかった。
「コワーキングスペースっていうのは、人がいるところに作るもんだよって、何回も言われましたね(笑)。でも、まずは物理的な環境がなければ仕事をする場所もない、人も来ないって。儲けを出そうとかは全く考えずに始めました。」
ただ、そんな状況の中で一人奮闘する和田さんの姿を、周囲の人はちゃんと見ていた。
「何かやるって言ったらうちの場所使いなよとか、応援してるよって、みんな言ってくれました。食堂の開店準備で一人で、お店の内装工事をやっていた時なんかは、見かねた地域のおじさんが『そんなんじゃ間に合わないよ』と言って一緒に手伝ってくれたりとか(笑)。」
こうした小高の人の温かさは、震災や原発事故といった大きな困難を乗り越えてきたからこそ、生まれたものだと、和田さんは言う。
「小高って一度全員が外の地域に出て、いま戻ってきてる人たちは全員ここに戻りたくて戻ってきた人です。だからみんな地域のために何かしたい、あるいは自分ではできなくても応援しようっていう気持ちの人しかいません。だから何か始めようとするときに、みんなで協力してくれる。」
「あと、小高の人は避難で全員が一度よそものになった経験があります。だから地域に外からの人が新しく来ても、地元の人と同様に迎えてくれる。これも小高ならではだと思います。」
見聞きした情報よりも、まずは足を運んで小高を体感してほしい。
これから小高への移住を検討している方には、和田さんは次のような言葉を投げかける。
「まずは一度小高に来てください。目や耳で得た情報と、実際にここに来て得た感覚では全然違うと思うので。実際にここに来られる方は、みんなそうやって肌でボジティブな空気を感じて帰っていかれます。」
「小高は震災とか原発事故の被災地ではありますけど、そういうネガティブなイメージの地域というよりは、圧倒的な余白があって、チャレンジする人を受け入れてくれる、そういう地域だと思ってます。0から何かやりたい人、自分の暮らしを自分で作って行きたいという方は、ぜひ一度小高に足を運んでもらえればと思います。」
新たな挑戦の場として、あなたも一度小高を訪れてみてはいかがだろうか。
文…久保田貴大 撮影…アラタケンジ