おだかの「天の虫」を追って。【後編】
かつて小高区で盛んだった養蚕業の歴史・文化を守り、未来へ繋げていくために、養蚕にかかわりのある方々の元を訪ね、貴重な声を紡ぐシリーズ企画。後編では、小高で育てた蚕の絹糸でアクセサリーなどを作っているNPO法人「浮船の里」の島抜さんにお話を伺いました。
神様が見守る場所の音「MIMORONE」
みなさんは、「みもろ」という大和言葉をご存じでしょうか。「みもろ」とは、神様が見守る場所のこと。それに「音(ね)」を加えてブランド名にしたのが、小高で育った蚕から紡いだ絹糸でアクセサリーなどを作っている「MIMORONE」です。
「小高は、昔から冬は晴れの日が多かったり、秋は台風があまり来なくて大きな洪水がなかったり、何かに守られている感じがして。あとは昔の生業を取り戻そうとしている人たちが機織りする音や、お蚕さまが桑の葉っぱを食べる音を連想できる名前にしました」。
そう話すのは、NPO法人「浮船の里」のメンバー5人と共に、MIMORONEを2016年に立ち上げた島抜里美さん。詳しいお話を伺う前に「先にお蚕さまを見てみますか」と浮船の里の活動拠点である「あすなろ交流広場」に併設された蚕小屋へと案内してくれました。
蚕小屋の引き戸を開くと、茶葉のような桑の青々とした香りが。棚の上に敷かれた桑の葉には、想像していたよりも細く、かわいらしい蚕たち。よく見ると、桑を一生懸命食べていたり、寝ているのかじっと動かなかったり。一頭ごとに個性があるのが見て取れます。
——ここにはどれくらいの蚕がいるんですか?
島抜さん 四齢(※)のお蚕さまが5,000頭ほどいます。人でいうと中学生くらいですかね。
※卵からかえった蚕が最初に脱皮するまでを第一齢、その後の蚕を第二齢と呼び、以後、脱皮するたびに第三齢、第四齢と呼ぶ。通常は第五齢で成熟してさなぎになり、大きな繭を作る。
——5,000頭も。そこからどれくらいの絹糸が作れるんですか?
島抜さん 大体、3,000頭で着物一反分といわれています。餌の桑の葉は100kg必要です。
——すごい量!餌やりも大変ですね。
島抜さん ただ、まだ楽な方で。五齢になると、今の倍くらいの桑が2時間でなくなります。人でいうと高校生くらいなんですが、子育てと同じで“飯炊き”が大変なんです。
——食べ盛りなんですね。
島抜さん そうですね。あとは温度も管理してあげて、なるべく“食っちゃ寝”できるようにしてあげて。うらやましいですよね(笑)。
MIMORONEではお蚕さまの飼育から繭の糸取り、染め、機織りまで行い、ふくさや髪留め、ピアスなどを一つひとつ丁寧に手作り。染料となる植物や野菜などは小高産のものを使用しています。
——染料は小高のものなんですね。
島抜さん そうなんです。本当にその辺の(笑)。
そう言って、窓の外を指さす島抜さんは、小高のものにこだわる理由を教えてくれました。
島抜さん せっかくやるんだから、特別なものにしたいと思っていて。お土産じゃなくて、嘘偽りなく小高オリジナルの特産品を作りたいんです。
——お土産じゃなくて特産品に。
島抜さん お土産だと安く見られちゃうので。特産品にできれば、被災地というラベルも貼られずに勝負できるんじゃないかなと。
——色も風合いも小高でしか生み出せない一点物ですもんね。
島抜さん シルクには、ずっと大切に持っておきたくなるような神秘的な美しさがあります。そこに携われていることに幸せを感じますし、手にした人もそう思ってくれるものが作れたら何よりですね。
一つひとつ手作りされるMIMORONEの商品は、毎月の新月から満月までの14日間のみ、オンラインストアで販売されており、北は北海道から南は九州まで、そのコンセプトや価値に共感してくれる人たちが購入してくれているそうです。
はじまりは、お蚕さまとの偶然の出会い
浮船の里は、小高で暮らしてきた主婦3人によって2013年4月に立ち上げられた団体。住民が話し合う場をつくりたいと、あすなろ交流広場で月1回「芋こじ会」を開催していました。会では当初話し合うだけでしたが、回数を重ねるごとに「何かやりたい」という声があがり、かつて小高を支えた機織りをすることに。どうせなら自分たちで糸から作ろうと、養蚕を行うことになりました。
現在、MIMORONEの中心メンバーとして精力的に活動している島抜さんですが、そのきっかけはまったくの偶然だったといいます。
島抜さん 当時、子育てが忙しくて、なかなか自分の時間が持てなくて。元々、手芸好きだったこともあって、息抜きに機織りをしてみたいと思ったんです。
——初めは機織りに興味があったんですね。
島抜さん 2014年10月に初めて参加したんですが、この机の上にお蚕さまが30頭くらいいて。特に気持ち悪いとも思わず、何も知らなかったので「へー、蚕か」と。
ちょうどその時、浮船の里の活動に賛同してくれていた群馬県富岡市で養蚕と織りを行う金田さんご夫婦が訪れていたそう。
——そこで蚕と出会ったんですね。
島抜さん ただ、最初はやはり機織りが楽しかったので、週1回くらい訪れていて。養蚕にはまった大きなきっかけは糸取りをしてからですね。
——どう気持ちが変わったんですか?
島抜さん 自分たちで取った糸を見た瞬間、「あ、こっちだ!」って。“本物”というか、他の糸とはまったく違っていて、とてもきれいで引き込まれたんです。
——そこからのめり込んでいったんですね。
島抜さん そうですね。凝り性な性格なので、それはもう一気に(笑)。
消えゆく文化を残したいという想いが原動力
絹糸の美しさに魅了された島抜さん。それ以降は草木染めにも夢中になったと話しました。
島抜さん つい楽しくなってしまって、無理して染料を集めたり、糸を染めたりして。その結果、体調を崩しちゃって。
——それは大変でしたね。
島抜さん そういったこともあって、もう無理して必要以上にやるのはやめることにしました。余計にやっても染料や糸はたまる一方ですし。
そう話す島抜さんは、お蚕さまの姿に震災後の小高を重ね合わせていました。
島抜さん お蚕さまは、例え放射性物質が付着している桑の葉を食べてもそれを体内にため込まないので、繭や糸には残らないんです。植物からとった色も同じだということがわかって。それに安心したというか。
——なるほど。
島抜さん 必要以上の豊かさを求めて、発電する施設をつくって。そこの事故で住む場所を追われて。でも、例え汚染された土地といわれても、一つ一つの安全を確認できる土地でもあるから大丈夫だよと。それがMIMORONEで表現したいことの一つですね。
——島抜さんが感じる養蚕や機織りの魅力って何ですか?
島抜さん 多様性ですね。ただ養蚕から始めると、その奥深さを感じるまでに時間がかかるかな。
——即答ですね。
島抜さん 糸の取り方も織り方も。その人次第で自由にできるのが魅力です。それによって形や風合いは異なりますが、同じシルクなので価値は低くならないし、全部正解なんです。
——全部正解。すべてをやさしく包み込んでくれる寛容性があるんですね。
島抜さん シルクは日本の民族文化そのものなんです。『魏志倭人伝』にも記述があったり、皇室でも養蚕をやっていたり。
——それほど古くから日本に根付いた文化なんですね。
島抜さん 昔から位の高い人のものだったので、その品位を大切にしたいし。そういった贅沢なものに日々携われることを感謝しています。
——技術や知識だけではなく、歴史の中で培われてきた価値も受け継いでいるんですね。
島抜さん 実は私の母方のおじいちゃんとおばあちゃんは紡績会社で出会っていて。すごくご縁を感じているんです。
——絹糸が紡いでくれたご縁ですね。
島抜さん それもあって、消えつつある文化を残し続けたいっていうのが原動力の一つになっています。
養蚕や機織りを次の世代へ
今年7月、島抜さんは自ら養蚕から糸取りまで手掛けた絹糸で、初めて着物一反分を織ることができたといいます。
島抜さん 生地は薄い方がいいとか、重いとダメとか、いろいろ研究を重ねてやっとできました。
——これまでの活動の成果ですね。
島抜さん 活動当初に掲げた目標の一つが達成できたので、これまでお世話になった人たちに恩返しとしてお渡ししたいですね。活動に最大の理解を示してくれた家族にも感謝しています。
——今後の目標はあるんですか?
島抜さん 私たちがやっている養蚕や機織りを記録に残して、子どもや次の世代に繋げたいと思っているんです。
——次の世代へ。
島抜さん 養蚕や機織りは、女性の歴史なんです。ただ、昔はその地位が低く見られていたり、字を書ける人が少なかったりして、あまり技術や知識が継承されていません。
そう答える島抜さんは「私の中だけに残しても仕方ないですしね」とやさしく微笑みながら、草木染めのサンプルが整然と保管されたファイルや、養蚕について記録した『お蚕様日記』を隠すことなく見せてくれました。
——貴重なデータですね!こういったものを残していきたいと。
島抜さん そうですね。それと毎年、小学校にお蚕さまを出張させているんです。今年は中学校にもお世話になりました。
——そういえば昔、小学校に蚕が置かれていたのを思い出しました。
島抜さん 子どもたちがお蚕さまやシルクに直接ふれる機会を提供したいという思いが、最近は強くなっています。
——特に小高の子どもたちには知ってほしい文化ですね。
島抜さん 養蚕と絹織物が産業として成り立っていたからこそ、この町でみんな生まれて、成長できて。そのお蚕さまと自分たちとの繋がりを体感できれば、地域学習にもなるんじゃないかな。
——なるほど。それだと子どもも興味が湧きやすいですね。
島抜さん そして、一人でも興味があって、やってみたいっていう子が出てきてくれれば、しばらくはこの伝統も守られ続けていくんじゃないかと思っているんです。
前後編にわたってお送りしてきた『天の虫を追って』。養蚕が暮らしの中心にあった農家の根本さんご夫婦、機織り工場を小高最後の一軒になるまで続けた和田さん、そして伝統の灯を繋げようと挑戦を続ける島抜さん。
それぞれの口から語られた小高の養蚕と絹織物にまつわるお話は、時代の移り変わりや戦争、震災を乗り越えて、前を向き続ける人々の物語でもありました。そんな人々の想いを大切に明日へ、未来へ歴史を紡いでいく——。その姿勢こそが、まるで絹糸のようにやさしく、ぬくもりに満ちた“本当の豊かさ”を、小高という土地、そしてそこで暮らす人たちの心にもたらしてくれているのではないでしょうか。