柳美里さんの本を片手にめぐる小高

<strong>柳美里さんの本を片手にめぐる小高</strong>

「柳美里さんの作品に出てくるあの場所を訪れてみたい」。

2015年に鎌倉から南相馬に移住し、2018年に小高でブックカフェ「フルハウス」を開店した芥川賞作家・劇作家の柳美里さん。ここ数年で発表された戯曲やエッセイには、小高の街並みや名所が何度も登場します。

作品を読んでその場所を歩くと、どんな印象を受けるでしょうか。寒さ厳しい23年1月、柳さんが描写した小高の風景を探しに行きました。

貴船神社

小高川沿いを歩いて街場へと向かう。小さな踏切を通って常磐線の線路を渡る。小高病院、浮舟文化会館の裏を通ると、突き当たりに赤い鳥居の貴船神社が見える。―(『町の形見』p239)

戯曲集『町の形見』には、ラジオドラマとして書き下ろされた朗読劇「窓の外の結婚式」が収録されています。津波によって夫と両親を亡くし、いまは別の町で恋人と暮らす小高出身の「女」の物語。彼女が一番好きだったという散歩道の道程としてちらりと登場するのが貴船神社です。

小高川と道路に挟まれひっそりと佇む小さな神社。観光客が目的地とするような派手さはありませんが、地元の人が散歩途中にふらりと立ち寄る、日常の中にある神社として親しまれているのだろうな、と思いました。

大木も大事に祀られています。

妙見橋と相馬小高神社

―そこを右に曲がって、真っ赤な橋を渡ると、小高神社がある。野馬追最終日に野馬懸が行われる神社だ。―(『町の形見』p239)

先ほど引用した箇所の続きです。貴船神社を右に曲がると、小高川に妙見橋という橋が架かっています。「女」と結婚し、神戸から小高に移り住んだ「男」(元夫)は、ここから見る山の景色をとても気に入っていたようです。

―死ぬ間際に走馬灯みたいに過去が頭ん中を駆け巡るっていうけど、あの山並みは、最後の一秒に見るんやないかな。―(『町の形見』p244)

川の先に広がる、なだらかな山の稜線。きっと、四季折々でさまざまな表情を見せてくれるのでしょう。眺めていると心が穏やかに凪いでいくような景色でした。最期の瞬間、彼の瞼の裏にはこの景色が浮かんだのでしょうか。

橋を渡って白い鳥居をくぐり石段を登ると、相馬小高神社の本殿前に出ます。この日は風がびゅうびゅうと音を立てて吹いていたのですが、周囲を木々に囲まれているからでしょうか、敷地内に入った途端ぴたりと止み静けさに包まれました。

相馬小高神社が建っているのは、約280年間、奥州相馬氏の本拠地であった小高城跡。「窓の外の結婚式」でも触れられていた、相馬家の家紋である九曜紋が至るところに刻印されていました。

注連縄の奥には、国の重要無形民俗文化財に指定される祭典・相馬野馬追の馬の絵が飾られています。野馬懸は、騎馬武者が荒馬を追い込み、白装束に身を包んだ御小人が素手で捕らえて神前に奉納する神事。一度は見てみたいものです。

小高川沿いの桜並木

―今年の春は仕事で小高を離れる時と雪や雨の時以外は、ほぼ毎日桜並木の下を歩きました。―(『南相馬メドレー』p215)

「窓の外の結婚式」で「女」が夫と散歩していた小高川沿いの遊歩道は、柳さんご自身のお気に入りの散歩道でもあるようです。南相馬に移住してからの日々を綴ったエッセイ『南相馬メドレー』にはこの道が何度も登場します。

―東由多加の命日、四月二十日は、風のない穏やかな日でした。満開を過ぎた染井吉野の花びらがはらはらと散り、小高川の川面には花筏ができていました。遊歩道は花びらの絨毯が敷かれていて、踏むのが惜しいくらいでした。―(『南相馬メドレー』p216)

柳さんは、18歳から31歳まで15年間ともに暮らした伴侶の東由多加さんを2000年に亡くしています。「窓の外の結婚式」で描写される「女」の心情は、柳さんの経験から書かれたものなのかもしれません。

―わたしたちが日課にしているのは、休まずに歩き続けるウオーキングではなく、立ち止まることが多い散歩です。時には、道にしゃがんで小さな蛾や蝿の死骸を巣に運ぶ蟻を見つめたり、桜の幹にとまる蝉を手で捕まえたりしながら〜―(『南相馬メドレー』p227〜229)

北海道大学に通う息子さんが小高に帰省すると、2人はこの遊歩道を歩いて日々のことを語り合うとのこと。子どもの頃は虫博士と呼ばれていたという柳さんと、森林生態学を学んでいる息子さん。何もかも眠っているように見える冬の景色も、ふたりなら生命の息吹を感じられるのかもしれない、と目を凝らしながら歩きました。

枯れ葉や枯れ枝が落ちる地面に、オオイヌノフグリの青がちらりと覗いていました。

春が訪れたら、春に浸る。

風が吹いたら、風に吹かれる。

緑が繋がったら、緑に従う。

泳ぐのではなく、流される。

初夏の彩色と生き物の気配に包囲されていることを歓び、令和元年を寿ぎながら、わたしは川べりの小道を歩きました。―(『南相馬メドレー』p217)

桜染めの際は、花が咲く直前の桜の枝や樹皮を煮出すと綺麗に染まるといいます。葉が落ちて寂しく見えるこの枝も、春に向けて内側に桜色を漲らせているのでしょうか。

浦尻貝塚

―太平洋に面した南相馬市の南端、小高区浦尻に、縄文時代の遺跡、浦尻貝塚があります。海岸線から約七〇〇メートル離れた標高二五〜ニ八メートルの見晴らしの良い高台に位置し、その広さは福岡ドームとほぼ同じ、約七万平方メートルです。―(『春の消息』p186)

『春の消息』は、神仏習合や霊場、死生観などをキーワードに日本の思想を研究する東北大学大学院教授・佐藤春夫さんと柳さんが東北の霊場を訪ね、東日本大震災を経験した人々が待ち望む春を探す旅の記録。青森県五所川原市の川倉賽の河原地蔵尊、岩手県遠野市のデンデラ野、宮城県伊具郡丸森町の小斎城……さまざまな地が紹介されるなか、小高の霊場も2つ登場します。そのひとつが浦尻貝塚です。

―いま、縄文遺跡を訪れると、どの遺跡も前面に川や湖水などの水面を望み、背後には深い森が広がる、南向きで陽当たりのよい高台に位置しています。潟湖と森に挟まれ、東に海を望む浦尻貝塚もその例に漏れません。

(中略)三〇〇〇年の時を隔てた縄文人たちもここに佇み、同じ海の景色を眺めながら、自分たちに豊かな恵みと壮絶な災害をもたらすカミの威力を思い、もはや言葉を交わすことのできない仲間の行く末を想ったのでしょうか。―(『春の消息』p187)

浦尻貝塚があるのは、小高のまちの中心部から車で15分ほど南下した丘の上。現在は工事中のため中に立ち入ることはできませんでしたが、木々の向こうに海の青が煌めいているのが見えました。

この工事は縄文のくらしと自然との関わりを体感できる史跡公園を整備するためのもの。令和6年の開園を予定していて、貝塚や復元された竪穴住居などが見られるようです。

大悲山の石仏

―福島県南相馬市小高区泉沢の丘陵地には大悲山の石仏群が点在しています。

ここにある薬師堂石仏、観音堂石仏、阿弥陀堂石仏は、彫刻の様式から平安時代前期の作とされ、当時の仏教文化を示す貴重なものとして、昭和五年(一九三〇年)に国史跡に指定されています。―(『春の消息』p180)

『春の消息』に出てくるもうひとつの霊場は、大悲山の石仏。制作時期は平安時代前期と推定されていて、東北地方で最大・最古の石仏であり、日本三大磨崖仏のひとつにも数えられています。

まず向かったのは薬師堂。堂内に入ると自動で照明がつき、ガラス戸の向こうに大きな仏像が何体も鎮座していました。

岩窟の壁面に、浮彫で4体の如来像と2体の菩薩像が、線刻で2体の菩薩像と飛天が掘り出されています。朱色などの彩色が光背の一部に残っていることから、本来は色鮮やかな石仏であったと考えられるそう。千年前はどんな姿だったのでしょうか。

薬師堂を出て左に数十メートル歩くと、赤いお堂がありました。近づいて中を見ても仏像らしきものは確認できませんでしたが、ここが阿弥陀堂で間違いありません。かつては阿弥陀仏が刻まれていたものの、長い年月により剥落し、いまは形を留めていないとのこと。

観音堂があるのは、薬師堂・阿弥陀堂から車を2〜3分走らせた場所。堂内に入ると、高さ約9mの大きな仏様がこちらを見下ろしていて圧倒されました。この石仏群の本尊、十一面千手観音坐像です。

柳さんは特にこの石仏が好きだそうで、「千手観音の指先や爪先のその先に、救済への意志を感じる」と語っています。この石仏群が作られた背景は明らかになっていませんが、掘らずにはいられなかった何かがあったのかもしれませんね。

小高駅

―住民の大半が避難している小高の駅通りは静かで、聞こえるのは自転車の車輪の音だけでした。けれど、人々が自転車で走り抜けることによって町の脈が強くなったように感じられたのです― (『南相馬メドレー』p64)

小高区全域に出されていた避難指示は2016年7月12日にほぼ解除され、同日、JR常磐線小高駅も営業を再開しました。それまでの約5年間、小高は日中でも人の声や物音が極端に少なく、見えない雪が降り積もっていて音を吸収しているかのように静かでした。

7月12日、小高のみなさんはどんなに嬉しかったことでしょう。『南相馬メドレー』には、その日の様子が温かな目線で綴られています。

小高駅に着いたときはちょうど高校生たちの帰宅時間と重なったようで、ホームや待合室には笑い声が響いていました。ごく普通の駅の、ごく普通の光景。でも、その5年間のことを思うと、とても尊いものに見えてきます。

フルハウス

最後に立ち寄ったのは、柳さんのご自宅兼ブックカフェのフルハウス。『町の形見』に収録された戯曲「静物画」「町の形見」は、併設する小劇場La MaMa ODAKAで上演されました。柳美里さんの聖地巡りと言ったら、ここを欠かすわけにはいきません。

ブックカフェを開こうと思った理由、この場所との出会い、本棚を作ってくれた人や内装を手掛けてくれた人、選書の基準……『南相馬メドレー』にはフルハウスの裏話がたくさん出てくるので、目に入る一つひとつのものから背景にある物語が想起されます。

この日迎えてくれたのは、柳さんのパートナーの村上さんと、カフェメニューを担当しているスタッフのお二人。本も食事も、おすすめを聞くと色々答えてくれます。南相馬の苺を使ったパフェを食べ、浜通りに関係する本を新しく買い、小高を後にしました。

―わたしは、フルハウスを訪れる人が、自分の中に確かに存在するけれども、目では見えない「こころ」と出会うことができるような本を揃えます。

良い本との出会いは、自分の「こころ」にふれることができるから。―(『南相馬メドレー』p148)

小旅行を終えて

柳美里さんの作品を読むと、窓から差し込む冬の朝陽のような印象を受けます。白く透き通った光が落とす、深く柔らかな陰影。大きな喪失を経験し、心の一部に死者のための場所があるからこそ、この世界の美しさを豊かに受け止め、悲しみを抱く他者の隣に立てるということ。

誰もが人生のどこかで喪失を経験するはずです。その重みに耐えられなくなりそうなとき、柳さんの作品に触れ、柳さんの視点と共にその舞台となった場所を歩いたら、お互いの悲しみにそっと手を添えその重みを分かち合っているように感じて、心が慰められるのではないでしょうか。

小高にはもちろん楽しい魅力もたくさんあり、おいしいグルメや小高ならではの体験ができる旅を提案することもできますが、それはほかの記事に任せるとして。自分のこころにふれる静かな時間を必要としている人、柳美里さんの言葉やまなざしを必要としている人に、この記事が届けば幸いです。

文・撮影 飛田恵美子(言祝ぐ)

茨城県出身のフリーライター。東日本大震災後に東北各地で誕生した手仕事プロジェクトを100以上取材し、2019年に小学館から『復興から自立への「ものづくり」』を出版。避難指示解除前・解除後の小高を数回訪れている。